「なんで死んじまったのかなあ」
「今、どう思ってるかなあ」
ある方の相続手続き
なかなか相続の話し合いが進まないので、状況整理もかねて「申述書」の作成をしています。
亡くなった人の生い立ちから最期の時まで
関係する人からお話を聞きとりしながら、いろいろな事実関係を整理します。
事実関係を整理しながら、私も「なんで死んでしまったのか」とか「(相続争いの)今、亡くなった人はどう思っているだろうか」って、物思いにふけってしまいます。
感情の対立があって、泣き落としをする人、怒りをぶつける人、悔しさをにじませる人。
人それぞれの感情の表現がある。
人間だから様々な感情があって当然ですけど、話し合いの場では感情をあらわにすることがかえって逆の効果を生み出します。
相続の話し合いの臨まれる方には、
「感情をあらわにしたら損ですよ」とか
「怒りや悲しみを相手にぶつけても相手は変わりませんよ」
「ぶつけるだけ損じゃないですか?」
ってアドバイスしています。
悲しいのは、愛する人を失ったみんなが悲しいわけで、たとえば夫を失った妻一人が悲しいわけではない。
夫の親も悲しいし、子どもたちも悲しい。
自分ひとりが悲しくて、自分以外は悲しんでいないってことはない。
愛する人を失った悲しみは、皆が共有するものって思えれば、誰か一人が悲劇の主人公になることはない。
「私だけが悲劇の主人公」って思い込んでしまう人は、大切な何かを見失っています。
その人が失った愛する人は、愛する人の親が大切に育ててくれたから愛する対象足り得たわけです。
愛する人が自然と地面からニョキって生えてきたわけじゃない。
そんな当たり前のことを忘れてしまっているんじゃないかって思える人が、相続争いの場で見受けられる。
相続人の感情に少しでも配慮があれば争いにならなかったのではないか。
そんなケースけっこうあります。
どれだけ泣いても悲しんでも怒っても、愛する人は帰ってきません。
遺された家族が愛する人を失ってから、「家族」の形態をどうしていくのかを考えてほしい。
保持してもいいし、解消してもいい。
愛する人が悲しまないような形での決着を模索してほしい。
書類を作りながらボーっとそんなことを考えていました。
相続争いは、誰かが勝って誰かが負けるってものではない。
相続に関係する人の人間関係が壊れた時点で、愛する人を失望させたわけだから皆が負け。
私はそう考えています。
評議員 村瀬尚仁